最近のわたしは、いつもぼーっとしている。
浮かびすぎず、沈みすぎず、できれば少し重さを感じさせるくらいの足取りで生きていくことを目標に定めてから、
何週間か、何ヶ月か、気付けば何年かが経った。
それは「いい塩梅」とか「持続可能」とか「低空飛行」という言葉で主治医から示されたものだったのだけれど、
言われた当時は、主治医が何を言おうとしているのか、正直言ってさっぱり分かっていなかった。*1
けれど、主治医の言葉から2年半くらい経ったある日、まさにその言葉通りのちょうどいいテンションにめぐりあった。
言葉で表せば、それはたしかに「いい塩梅」で「持続可能」な「低空飛行」だった。*2
その詳細を聞いた主治医のはっとした表情、そして深い頷き。
その日からわたしはあの日のテンションの重さを再現することを目標として掲げている。
毎日、いろいろなことがある。
うまくいく日もあれば、うまくいかない日もある。うまくいかない日のほうが圧倒的に多い。
けれどそうやって毎日を繰り返しているうちに、その試行錯誤こそがちょうどいい生き方そのものなのだと思うようになった。
ここ数日、そのちょうどいい重さってやつが心身にぴたりとはまっている。
心の中ではガッツポーズだけど、はたから見ればただ静かにぼーっとしているだけの人かもしれない。
いつかのわたしのように、パーンと弾けるように笑い、
フットワークは軽く活動的で、エネルギッシュに次から次へと動き続ける、
そんなわたしを知っている人から見たら、きっとずいぶん具合が悪く、落ち込んでいるように見えるだろう。
逆に、ずしりと沈み切ってしまって、布団から一歩も動くこともできず、
天井か床だけをただ見つめていて、やっと動けたかと思えば泣いてばかりいる、
そんなわたしを知っている人から見たら、きっとずいぶん調子がよくなっているように見えるだろう。
でも実際には、このぼーっとしているわたしは、どちらの極端なわたしともつながっていない。
そこに連続性はなく、ぼーっとしている人という存在がここにある。
マイナスから寄ってきたゼロでもなく、プラスから寄ってきたゼロでもない。
それはただの点としてのゼロ。今まで知らなかった、ニュートラルな自分。
これまでのわたしは、活動的でエネルギッシュな自分が、本当のわたしだと思っていた*3。
落ち込んで動けなくなっている自分は、その期間だけ病気なのだと思っていた*4。
でもどうやら、そのふたつの自分はつながっていて、
それとはまた切り離されたところに、もっと楽にいられる自分というものがあるらしかった。
そのニュートラルな自分というものの目安を知った今、できることなら浮かびすぎたり沈みすぎたりしないように、
画鋲かなにかでえいやっと点Oから動かないようぴったり固定して、もう揺らがないようにしてしまいたい。
けれど実際には、世界も自分もどちらも時間の海のなかで揺らいでいる。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
それでええと、浮かびすぎず沈みすぎずできれば少し重さを感じさせるくらいっていうのを目標にしているんだけど、
わたしにとって"ちょうどいい"姿は、はたから見たらぼーっとしているような状態で。
それはつまりわかりやすい行動が少ない状態であって、生産性とか効率性とか貢献度とか・・・
そういうモノサシをあてると、ずいぶんとどうしようもない点数がついてしまう。
ふとした瞬間、うわー、だめなやつー、って声が、聞こえてくる気がする。声の主は自分の心の中にあり。
偏差値からはじまって、誰かがつくったモノサシを意識して生きてきた。
"できる"自分でありたくて、"ちゃんとしてる"大人でありたくて、"前を向いて進んでいる"姿を見せたくて。
つまずいては自分の甘さをなじってまた歩き出して、
転んでは自分の弱さを自嘲して平気なふりして、
倒れては急いで立ち上がらなきゃと傷口から目を背けて、
大丈夫、大丈夫、みんな頑張ってる、これくらいできなきゃ、これくらい当たり前、、、
今までにないほど派手にぶっ倒れて、自分だけの問題じゃなくなって、さすがに白旗をあげた。3年とちょっと前。
いろんな幸運が重なって、それまでの転倒時には出会えなかった医療や支援の恩恵を受け、今に至る。
そしてわたしはモノサシの世界から静かに離れた。おそるおそる梯子を降りて。
幸運なことに「ちょうどいい重さ」を知って*5、鎧を脱いで素足でつちの上に立ってみれば、そこは本当に静かだった。
だれもモノサシをあててこない。
走れ、頑張れ、もっと、もっと・・・そんな声も聞こえてこない。
だけど、モノサシありきの世界の見方も考え方はわたしの脳みそにがっちり絡みついていた。
本当にこれでいいのか。戻れなくなるぞ。今もこの瞬間にどんどん差がひらいているぞ。
思考の奥に引っ付いているモノサシと、つちの上で安らいでいる自分の姿とのギャップ。
そこから、怨念だか呪詛だかがどろりと流れこんでくる。
自分の首に、足に、怨念がぐちゃぐちゃ絡みついて、身動きが取れず、息ができずに苦しくなる。
ぼーっとしている自分を、ぼーっとしているなあって眺めている、
このぼーっとしている自分こそが、まさにそんな風に苦しんでいる瞬間でもあったりする。
ぼーっとしながら苦しんでいるの、だれにもわからないだろうさ。だってぼーっとしているだけだし。
でもこのまま本当にぼーっとしていてなにもしなければ、その怨念に手足を乗っ取られて、また梯子を登るはめになりそうで。
それが正解になる世界線もあるんだと思う。
でも、今のわたしはそれにNOを突きつけておくことにする。
だから今は、今いる世界で、自分の届く範囲で手を動かし足を動かしている。
今のわたしには、つちの上を淡々と生きていく練習を、毎日淡々と続けていくのがいちばん。
そしてそれはたぶん、明日のわたしのためにも。
梯子の上からなにを言われても、それはつちには刺さらない。
つちはただ命をあたたかく包み込むだけ。
でも、つちの世界にまだ馴染みきれていない、不安定なわたしの心にはぐっさり刺さる。まいったね。
ぼーっとしている自分を、ぼーっとしているなあって眺めていられる、
そんなぼーっとしている自分を、
わたし自身がつちとなってやわらかく受け止められる日を、いつかむかえたい。
定期的に訪れる、自分のための言葉を吐き出したい欲求。
いまはここにそれを受け止めてもらうことにする。いろいろあるけど、ここに生きてるよー。*6